2025年3月に竣工予定の「三田ガーデンヒルズ」は、2024年11月現在、ほぼシートが外され外観を見ることができます。5棟からなる三田ガーデンヒルズですが、全棟外観を道路から確認できる状況となっています。そんな三田ガーデンヒルズが建つ東京都港区三田二丁目は、歴史的にも文化的にも重要なエリアであり、多くの魅力的な側面を持っています。現在、周辺には中層のオフィスビルも多いエリアですが、建物のまわりには、各国の大使館や慶應義塾大学、綱町三井倶楽部などの文化的な建物、歴史ある住宅街の雰囲気も漂います。今回は、2024年11月時点での三田ガーデンヒルズの建設状況と、三田ガーデンヒルズが建つ三田エリアの歴史について紹介していきます。三田ガーデンヒルズの建設状況(2024年11月時点) 三田通りから綱の手引き坂に入り、緩やかな坂を上っていくと「三田ガーデンヒルズ」の建設現場が見えてきます。 坂を上って右手前にすぐに見えてくるSOUTH HILL棟あたりの外観も道路から見ることができます。三田ガーデンヒルズの顔といえるPARK MANSION棟のエントランスも完成に近づいているようです。旧逓信省簡易保険局庁舎が再現されたファサードとその後ろ側と左右の建物も見え建物全体の雰囲気を感じることができます。歴史を感じるとても重厚感のある建物になっています。PARK MANSION棟の西側半分の気品と格式のある雰囲気の外観も見えてきました低層部と高層部の水平ラインを明快に分け、歴史あるデザインとモダンなデザインの対比を印象づけています。「三田」という地名の由来「三田」という地名の由来は諸説あるようで、伊勢神宮に奉納する神田があり、神田が「御田(みた)」とも言われていたためと言われたり、朝廷に献上する米を作る「屯田(みた)」からきたものとも言われています。いずれにしても、この地域は古くから農村地帯であり、江戸時代以前は田畑が広がるのどかな地域でした。三田エリアに所在する神社仏閣などの創建三田には、江戸時代以前から寺院や神社が点在していました。特に「三田台地」という高台に位置する地形が防衛や宗教的な観点から重要視され、寺社の建立が進みました。元神明宮(天祖神社)三田ガーデンヒルズの北側に隣接するのが、元神明宮(天祖神社)です。平安時代の寛弘二年(1005年)に一條天皇の勅命により創建されました神社です。渡辺綱の産土神でもあり、多くの武人に崇敬を受けたと言われています。江戸時代には、三田周辺が武家地や寺社地として発展する中で、地域住民や大名家から篤い信仰を集めました。明治以降、神仏分離令や都市開発に伴い多くの神社仏閣が姿を消しましたが、元神明宮は地域住民による信仰が続き、現在に至るまで残っています。所在地: 東京都港区三田3-2-6御祭神: 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)参考:元神明宮公式ホームページ三田春日神社三田春日神社は、三田通り沿いのため、三田ガーデンヒルズから少し離れますが、周辺の神社のひとつです。天徳2年(958年)に、武蔵国国司であった藤原正房卿が、大和国春日大社の第三殿に祀られる天児屋根命の御神霊を、当時の荏原三田邑(現在の目黒区三田)に勧請し、神社を創建したと言われています。その後、天文年間(1533年〜1555年)に現在の港区三田の高台に遷座されました。江戸時代には、江戸府内唯一の春日社として、徳川将軍家や諸大名から厚い崇敬を受けていました。所在地: 東京都港区三田2-13-9御祭神: 天児屋根命(あめのこやねのみこと)参考:三田春日神社公式ホームページ寺院の拡充この時代に増上寺やその関連の寺院が三田周辺に建立され、宗教文化の中心地としての役割も果たしていました。江戸時時代には武家地として発展江戸時代になると、武家地として発展していきます。江戸時代に入ると、三田は江戸城に近いことから武家地として利用され、多くの大名屋敷や旗本の屋敷が建てられました。特に、現在の慶應義塾大学三田キャンパスがある場所には、徳川家ゆかりの松平家の下屋敷がありました。三田ガーデンヒルズの建設地は、江戸時代には筑後久留米藩 21 万石有馬家の上屋敷地であり、1872(明治 5) 年に芝赤羽町となったと言われています。このあたり一帯は、江戸時代の初期までは赤羽川の水を利用した水田でしたが、明暦初年には久留米藩有馬家の上屋敷になりました。参考:一般社団法人 日本建築学会「『旧東京簡易保険支局(かんぽ生命保険 東京サービスセンター)およびその敷地』 の保存活用に関する要望書」浮世絵から見る江戸の三田歌川広重が描いた「名所江戸百景」シリーズは、江戸時代の文化や都市景観を知るうえで重要な作品です。その中から三田の風景が描かれているものを見てみましょう。安藤広重「名所江戸百景 月の岬」江戸時代には、三田周辺の海岸線は現在のJR線田町駅のあたりにあったと言われています。三田三丁目・四丁目あたりの「三田台地」は月見に好適な場所であったようで、安藤広重の「名所江戸百景 月の岬」は、場所は諸説ありますが、三田台地や品川宿から見た風景などと言われています。安藤広重「増上寺塔赤羽根」増上寺にはかつて五重塔があり、そこから見た絵です。川にかかる赤羽橋、左手に見える塔は高さ約6mもあった築後久留米藩有馬家の火の見櫓です。安藤広重「東都名所芝赤羽根増上寺」こちらは、逆に築後久留米藩有馬家の火の見櫓が右手にあり、建物は築後久留米藩有馬家の邸宅であり、三田ガーデンヒルズの建設地あたりとなります。左手奥に小さく見えるのが増上寺の五重塔です。出典:国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」明治時代以降は学術や住宅地として発展明治維新後、三田の武家地は政府によって払い下げられ、一部は教育機関や公共施設に転用されました。慶應義塾大学が三田に移転したのもこの時期です(1871年)。これにより、三田は学術の地としての性格を強めていきました。また、明治以降、三田は高級住宅地としても発展しました。近代的な建物が建設される一方で、旧来の歴史的な景観を残すエリアもあります。昭和・平成は戦後の復興と都市化が進む第二次世界大戦後、東京全体の都市再開発が進む中、三田もオフィスビルやマンションが立ち並ぶ現代的な街へと変貌を遂げました。しかし、一部には歴史的な建造物や庭園が保存されています。また、慶應義塾大学の三田キャンパスを中心に、学生街としての活気もあります。多くの文化施設や研究機関がこのエリアに集まり、知的で洗練された雰囲気を醸し出しています。現在の三田二丁目エリア三田ガーデンヒルズのある三田2丁目エリアは、古き良き歴史と近代的な都市開発が融合した地域です。寺院や旧家の跡地、緑豊かな庭園(例えば綱町三井倶楽部やイタリア大使館など)が存在する一方で、高層ビルや新しい商業施設も増えています。また、交通アクセスの良さからビジネス拠点としても注目されています。